「スマートフォンをどっかに投げ飛ばして」——この衝動的な一行で幕を開ける楽曲「Silent Journey in Tokyo」。back numberの7thアルバム「ユーモア」(2023年1月17日リリース)に収録された本曲は、アルバムの中でもひときわ鬱屈としたムードを纏い、聴く者の心に静かに、しかし深く刺さる一曲です。
ヒップホップ的なループ感と横揺れのグルーヴという、back numberにとって新境地のサウンドアプローチが話題を呼びました。ボーカル・清水依与吏さんは音楽ナタリーのインタビューにおいて、この歌詞がコロナ禍のしんどい時期に書いたものであることを明かしています。愛する人とずっと同じ空間にいなくてはならないという、本来なら幸せなはずの状況の中でもがき苦しむ人の姿。そこに込められたメッセージを、今回は歌詞から丁寧に紐解いていきます。
アーティスト・楽曲情報
back numberは、清水依与吏(Vo/G)、小島和也(B/Cho)、栗原寿(Dr)からなるスリーピースバンドです。2004年に群馬県で結成され、2011年にシングル「はなびら」でメジャーデビュー。「高嶺の花子さん」「クリスマスソング」「ハッピーエンド」「水平線」など数々のヒット曲を世に送り出し、切ない恋心や日常の感情を飾らない言葉で描く歌詞世界が幅広い世代から支持されています。
「Silent Journey in Tokyo」は7thアルバム「ユーモア」の7曲目に収録されています。作詞・作曲は清水依与吏さん、編曲はback number。清水さん自身がアレンジを手がけ、コンガやピアノの打ち込みも自ら行ったほか、パーカッションには朝倉真司さんが参加しています。清水さんはApple Musicのインタビューで本曲について「もっとも鬱屈したムードが出た」と語っており、ギターソロは自宅で最もしんどい時期に弾いたものをそのまま使用したとのこと。スタジオでは再現できない、生々しい感情がそのまま音に封じ込められた楽曲と言えるでしょう。
清水さんは音楽ナタリーのインタビューで、この曲の制作背景について「愛してる人とずっと同じ空間にいなくちゃいけない。本当は素晴らしいことのはずなのに、そこでもがき苦しんでいる人を描いてみたくて」と語っています。コロナ禍という未曾有の状況が、愛の息苦しさという普遍的なテーマをより鮮明に浮かび上がらせたと考えられます。
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考察①:スマートフォンを投げ飛ばして——逃避への衝動
スマートフォンをどっかに投げ飛ばして
夕暮れ羽田発で飛んだなら
多くを失うその代わりに
何が手に入るだろう
楽曲は、現代人にとって最も身近な「つながり」の象徴であるスマートフォンを「投げ飛ばす」という、強烈な逃避願望から始まります。ここで注目したいのは動詞の荒々しさです。「置いて」や「忘れて」ではなく「投げ飛ばす」。この一語に、日常の人間関係やデジタルなつながりへの苛立ち、そして鬱憤が凝縮されているのではないでしょうか。
「夕暮れ羽田発で飛んだなら」という仮定形が、主人公の心理を巧みに映し出しています。夕暮れという時間帯は、一日の終わりでも始まりでもない宙ぶらりんな時間。その曖昧な時間に衝動的に飛び立とうとする姿は、理性では逃げられないとわかっていながらも抗えない衝動の表れと読み取れます。続く「多くを失うその代わりに / 何が手に入るだろう」では、逃避の先にあるものへの冷静な問いかけが挟まれます。逃げたい、でも逃げたところで何が変わるのか。この自問こそが、本曲全体を貫く主人公の葛藤の出発点と考えられます。
考察②:雄大な自然の中で数えるのは「置いてきたもの」
雄大な自然と風の中で
置いてきたものをひたすら数えるよ
仮に東京を飛び出し、雄大な自然の中に身を置いたとしても、そこで主人公がすることは「置いてきたものをひたすら数える」ことでした。わずか二行で逃避の虚しさが痛いほど描き出されています。自然の中で心が解放されるのではなく、むしろ離れたことで失ったものの輪郭がよりはっきりと見えてしまう。それは愛する人との日常かもしれませんし、煩わしくも温かかった人間関係そのものかもしれません。
「ひたすら」という副詞が、その行為の終わりのなさを強調しています。数え終わることのない喪失感。どこに逃げても自分の心からは逃れられないという真実が、飾らない言葉で突きつけられます。ここには、清水さんが語った「コロナ禍で同じ空間にい続けることの苦しさ」が反映されているのではないでしょうか。離れたいのに、離れたら離れたで喪失を数えてしまう——その堂々巡りこそが、この曲の主人公が抱える根本的な苦しみなのです。
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考察③:”呪い”としての愛——「望んだのはご自分ですって」
愛ってのはね
呪いみたいなもんだからね
望んだのはご自分ですって
嗚呼 究極の合言葉
サビの冒頭で、愛は「呪い」であると断言されます。この比喩の鮮烈さは、back numberの楽曲群の中でも際立っています。恋愛の甘さではなく、一度結ばれたら逃れられない束縛としての愛。呪いとは自分の意志では解けないものであり、かけられた側はそこから逃れることができません。
しかし続く「望んだのはご自分ですって」という一文が、さらに主人公を追い詰めます。この呪いは誰かに無理やりかけられたものではなく、自分自身が望んで手に入れたものだという残酷な事実。「ご自分です」という丁寧語が、まるで第三者から突き放されるような、あるいは自分自身を客観視して皮肉るような距離感を生んでいます。「嗚呼 究極の合言葉」というフレーズからは、この真実があまりにも痛烈で、もはや苦笑するしかないという諦念が感じられます。愛に苦しむすべての人が最後にたどり着く「究極の合言葉」——それは「自分で選んだんでしょう」という身も蓋もない事実なのではないでしょうか。
考察④:”法律”としての愛——はみ出せない恐怖
愛ってのはね
法律みたいなもんだからね
はみ出して人間クビになるのがそう
怖いだけだ
サビ後半では、愛の比喩が「呪い」から「法律」へと移行します。呪いが「逃れられない束縛」を表すなら、法律は「破ることへの恐怖」を表しています。法律は社会の秩序を保つための規範であり、そこからはみ出せば罰が待っている。愛もまた、社会的な規範として人を縛り付けるものなのだという冷徹な認識が示されています。
特に「人間クビになる」という表現が秀逸です。「クビ」は日本の企業社会における解雇を意味する俗語であり、愛のルールを破ることを「会社をクビになる」ことになぞらえるという独特のメタファーです。愛から逸脱することは、人間として「解雇」されること——つまり社会的なつながりや居場所を失うことに等しいのだと。そして主人公は正直に「怖いだけだ」と吐露します。愛しているから離れないのではなく、離れるのが怖いから留まっている。この痛々しいほどの正直さが、多くのリスナーの胸に刺さるのではないでしょうか。
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考察⑤:パラレルとタラレバの雨——正論への苛立ち
どこにでも夢を連れ回して
どこかへ向かっていたような
盛大に道を逸れたこの期に及んで
僕はどこへパラレルとタラレバの雨の中
しあわせな理由をお経のように唱えるよ人生はね 捉え方ひとつだからね
ごもっともな結論で 反論の余地はない
未来ってのはね 変えられるものだからね
ってそんなの理解した上で苦戦してんだよ
二番では主人公の内面がさらに深く掘り下げられます。「どこにでも夢を連れ回して / どこかへ向かっていたような」は、かつては目標を持って生きていたはずの自分への回顧。しかし「盛大に道を逸れたこの期に及んで / 僕はどこへ」と、現在地を見失った迷子の心情が露わになります。
「パラレルとタラレバの雨の中」は、本曲屈指の巧みなフレーズです。「パラレル(ワールド)」と「タラレバ(〜していたら、〜していれば)」を並列することで、もう一つの人生への空想と、過去への後悔が雨のように降り注ぐ様子が鮮やかに描かれています。「しあわせな理由をお経のように唱えるよ」という一節では、ポジティブな自己暗示が宗教的な念仏に喩えられます。中身を理解して唱えているのではなく、意味も考えずにただ繰り返すだけの行為——自己啓発的な言葉の空虚さが浮き彫りになっています。
そしてCメロでは、「人生は捉え方ひとつ」「未来は変えられる」という誰もが一度は聞いたことのある正論が登場します。「ごもっとも」「反論の余地はない」と認めた上で、「そんなの理解した上で苦戦してんだよ」と叩きつけるこのフレーズは、本曲の白眉と言えるでしょう。正しいことはわかっている。でもわかったところで苦しみは消えない。この「知っている」と「できる」の間にある深い溝を、清水さんは見事に言語化しているのではないでしょうか。
考察⑥:繰り返されるサビ——ループが映す日常の反復
愛ってのはね
呪いみたいなもんだからね
望んだのはご自分ですって
嗚呼 究極の合言葉
愛ってのはね
法律みたいなもんだからね
はみ出して人間クビになるのがそう
怖いだけだ
ラスサビは一番のサビとまったく同じ歌詞が繰り返されます。この反復構造は、本曲のサウンドが持つヒップホップ的なループ感と密接に結びついています。清水さんが自らアレンジを手がけ、メンバーも「ループ感が表現できた」と語ったこのサウンドは、歌詞の内容と完全に呼応しています。
なぜ同じ言葉が繰り返されるのか。それは、主人公の状況が何一つ変わっていないからです。二番で道を逸れた自覚を持ち、正論の空しさに苛立ち、パラレルワールドとタラレバに溺れた末に、結局たどり着くのは同じ場所。愛は相変わらず呪いであり、法律であり、そこから逃れることは依然としてできない。この堂々巡りの構造こそが、本曲がリスナーの心に重く響く理由のひとつではないでしょうか。逃げようとして逃げられず、わかっていてもどうにもならない。その無限ループの中で生きていく息苦しさが、音楽の構造そのもので表現されているのです。
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考察⑦:鏡のふりしたビル——「ひどく愛しい」という着地
鏡のふりしたビルに映った
出会いと別れ 受け取ったもの
どれもこれもひどくありきたりで
ひどく愛しい
ここまで鬱屈とした感情を積み重ねてきた楽曲が、最後の四行で静かに、しかし決定的に転換します。「鏡のふりしたビル」という表現は、東京のガラス張りのビル群を指していると考えられます。本物の鏡ではなく「鏡のふりをした」ビル——完全に自分を映すわけではないけれど、そこにぼんやりと映り込む自分の人生の輪郭。出会いと別れ、そして受け取ったもの。
「どれもこれもひどくありきたりで / ひどく愛しい」という結びは、本曲の核心です。「ひどく」という副詞が「ありきたり」と「愛しい」の両方にかかることで、平凡であることと愛おしいことが切り離せない一体のものとして提示されています。逃避を夢想し、愛を呪いと嘆き、正論に苛立ち——その果てにたどり着くのは、「この平凡な日常が愛しい」という素朴な気づきでした。
注目すべきは、冒頭で「羽田」(東京の出発地点)が歌われ、最後に「ビル」(東京の風景)が登場するという構図です。「Silent Journey in Tokyo」というタイトルでありながら、主人公は実際にはどこにも行っていません。旅は東京の中で、あるいは主人公の心の中で完結している。「Silent」(静かな/声にならない)な旅とは、誰にも言えないこの内面の葛藤そのものを指していると考えられます。そしてその静かな旅の結論が、「ひどく愛しい」というかすかな肯定であることに、back numberらしい繊細な温かさが宿っています。
独自の視点:コロナ禍が浮き彫りにした「愛の息苦しさ」の普遍性
本曲を読み解く上で欠かせないのが、コロナ禍という制作背景です。清水さんが語った「愛してる人とずっと同じ空間にいなくちゃいけない。本当は素晴らしいことのはずなのに、そこでもがき苦しんでいる人を描いてみたくて」という言葉は、この楽曲の根幹をなしています。コロナ禍の自粛生活は、多くのカップルや家族に「逃げ場のなさ」を突きつけました。しかし清水さんが巧みなのは、その時事的なテーマを普遍的な感情として昇華している点です。
また、「人間クビになる」という企業社会的なメタファー、「お経のように唱える」という宗教的なイメージ、「パラレルとタラレバ」という現代語と仮定表現の融合など、本曲の言葉選びには日本社会の多層的な文脈が織り込まれています。さらに、サビの「〜ってのはね」「〜だからね」という語り口は、まるで居酒屋で誰かに愚痴をこぼしているかのような親密さと投げやりさを同時に醸し出しており、back numberの歌詞における「話し言葉の魔力」が存分に発揮された一曲と言えるでしょう。
まとめ
「Silent Journey in Tokyo」は、愛の美しさではなく、愛の息苦しさを真正面から描いた楽曲です。コロナ禍という特殊な状況を背景に生まれながらも、そこで描かれる感情——逃げたいのに逃げられない、正論はわかっているのに救われない、それでも日常は続いていく——は、時代を超えて多くの人の胸に響く普遍性を持っています。
呪いのように離れられない愛、法律のようにはみ出せない恐怖、正論への痛烈な苛立ち。それらすべてを抱えた上で、最後に「ひどく愛しい」とかすかに呟く主人公の姿に、多くのリスナーが自分自身を重ねたのではないでしょうか。完璧ではない愛、理想通りにはいかない日常。でもそのありきたりな毎日こそが、かけがえのないものだった——本曲は、苦しみの中にこそ日常の愛しさが宿ることを、静かに、しかし力強く伝えてくれます。
ぜひ東京の夕暮れの風景を思い浮かべながら、もう一度この曲に耳を傾けてみてください。あなたの日常の中にある「ひどくありきたりで、ひどく愛しい」ものが、きっと見えてくるはずです。
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楽曲情報
- 曲名:Silent Journey in Tokyo
- アーティスト:back number
- 作詞:清水依与吏
- 作曲:清水依与吏
- 編曲:back number
- リリース日:2023年1月17日
- 収録作品:7thアルバム「ユーモア」